越後高田、そのまっすぐな心。
春の桜。夏の緑。秋の稲穂。冬の雪。
越後高田には美しい四季に彩られた、豊かな大地があります。
昔、オーストリアのレルヒ少佐が日本に初めてスキーをもたらした金谷山からは、
近く妙高山を仰ぎ見、遠く米山を望み、その山々に抱かれるように高田の街が広がっています。
この大地は、かつて時代の主役たちが闊歩していました。
戦国時代は、織田信長、武田信玄と並ぶ名将として名高い上杉謙信の領国でもありました。
「義」を重んじ、私利私欲で合戦はしないが、道理をもって誰にでも力を貸す上杉謙信は、
敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、
「敵に塩を送る」という故事も生まれたほど。
旗印が「毘」の文字であったことからもわかるように、自らを戦の神である毘沙門天の生まれ変わりと信じた、
厚い信仰心でも知られています。
そのことは、「越後の龍」とも呼ばれた戦上手として、生涯ほとんど負けなかったことからもわかります。
そんな上杉謙信の正直で、まっすぐな気風は、今もどこかこの地に宿っています。
江戸時代には松平忠輝が高田城を築いて以来、高田藩の城下町として栄え、
明治の廃藩置県当初は、現在の上越地方(頚城地方)を範囲とする高田県の県庁所在地でもありました。
豪雪地帯として知られ、1945年2月26日には3.77メートルの深雪を記録し、
一部の教科書にも日本一として記載されたこともあります。
「雁木」と呼ばれる雪よけの軒先の下に、風情溢れる街並みが今も懐かしく残っています。
「武蔵野」という名の、歴史秘話。
現在の小林家が武蔵野酒造(当時武蔵野酒造店)を引き受けたのが大正五年。
現在はこれを創業の年としていますが、もともとはもっと古い蔵で、
その創業の年はよくわかっていません。
江戸時代には、酒蔵として歴史が始まっていたと想像することができます。
明治時代初期まで江戸時代から続く酒株制度があり、
その時代、その酒株を持っていなければ酒を造ることができず、
さらにその株の保有量に応じた量しか酒を造ることができませんでした。
この酒株は一時有価証券のようにも流通したと言われています。
この頃、江戸で修行をした創業者が高田の地に戻ることになり、
ここは推測の域を出ませんが、江戸の武蔵野周辺の酒蔵から酒株の一部を譲り受け、
創業したのが「武蔵野酒造」の命名の始まりと言われています。
また「武蔵野」と言う言葉には「野見尽くされぬ程、広大な平野」という意味があることから、
転じて「飲み尽くされぬほど大きな杯」と言う意味も持つとも言われています。
「武蔵野酒造」という名にはいにしえからの歴史が秘められているのです。
上越発酵文化の正統。
坂口謹一郎博士。
上越高田出身で、発酵・醸造学だけでなく、日本のバイオテクノロジーの基礎を築き上げた、応用微生物学の世界的な権威です。
その功績は、お酒から航空燃料、薬まで幅広く、特に、麹菌の研究、ワイン酵母の発見は、日本の酒づくりを大いに前進させました。
武蔵野酒造の先代は、坂口謹一郎博士とも交流が深く、直接酒づくりの指導を受けたり、さらに博士の研究のお手伝いをしたり、
夜は博士とともに、地元の酒づくりの仲間も集まり、酒を酌み交わしたと言います。
本社奥には、坂口博士が命名し、博士直筆の銘板を掲げた「楽酔亭」という名の亭もあります。
武蔵野酒造は、間違いなく坂口謹一郎博士の薫陶を受けた酒蔵でもあるのです。
武蔵野酒造には、もう一つのこだわりがあります。
新潟県上越市(旧高田市)は日本のスキー発祥の地。明治44年1月に日本に初めて
オーストリアの軍人レルヒ少佐によりスキーがこの地に伝えられました。高田が日本のスキー発祥の地なのです。
旧高田市では、高田の地が日本のスキー発祥の地であることを知らしめ、さらに街おこしのため、
地元産業界へスキーを冠にした商品を作ることを広く奨励したといいます。
武蔵野酒造も、それまで使っていた銘柄(越山正宗)にかえ、商品名を「スキー正宗」としたのです。
それ以来約80年にわたり「スキー正宗」を使用してきた伝統があるのです。
この銘柄にはたいへん愛着があり、戦時中、外国語が使えない時も「寿亀正宗」と表示して販売していたことからもわかります。
武蔵野酒造は、このように守り続けてきた伝統があり、新しく生まれ変わった武蔵野酒造は、かつてのこの「寿亀正宗」ブランドを復活させ、
伝承の味わいの再興を目指すとともに、これからも変わらず守り続けていきます。
越後高田に徹した、杜氏、米、水。
越後は、日本を代表する優れた杜氏の郷。「越後杜氏」として有名な三大杜氏としては、三島(さんとう)杜氏、刈羽(かりわ)杜氏、
そして武蔵野酒造がある上越、妙高、柿崎、吉川地区の頚城(くびき)杜氏。昔は冬場の出稼ぎとして、全国に赴き、素晴らしい酒づくりに貢献してきました。
一時は、全国の酒造りの九割近くに越後杜氏が関わっていたと言います。今、武蔵野酒造の酒づくりは、この地元で伝統を守り続けてきた頚城杜氏が担っています。
そして米は、新潟県が育成した酒造好適米の「越淡麗」と「五百万石」。「普通酒」から「大吟醸酒」まで幅広く対応できる晩生品種。
もちろん上越の田で実った米を使用。
水は上越は頚城山系の、雪解けの清冽な天然水。武蔵野酒造は、このように越後高田に徹した酒づくりにこだわっています。
そこに〝阿吽〟の呼吸あり。
酒づくりの現場。そこには、杜氏たちの受け継がれてきた伝統と磨き抜かれた技があります。蔵人たちの熱意と活気があります。
息の合った寸分の狂いのない動きがあります。
言葉の要らない「阿吽」の呼吸が酒づくりの空間に漂います。他の何人も入ることのできない、蔵人たちの世界があります。
守り続けきた越後高田の味わいを今に。
武蔵野酒造は、春は高田城の桜を愛で、夏は緑がみずみずしく輝き、
秋は美しい稲穂の海に目を細め、冬はどこまでも雪深いこの地で、変わらぬ味わいを守り続けてきました。
素朴な中にも、深い味わいのあるお酒をつくり続けてきました。
武蔵野酒造では、多くの皆様に、越後高田の地に訪れていただき、
丹精込めて作り上げたお酒を楽しんでいただくために、「楽酔亭」という迎賓の間をご用意しています。
この亭は、上越の発酵文化を花開かせた坂口謹一郎博士によって名付けられた心地よい空間です。
私たち武蔵野酒造は、越後高田の豊かな四季とともに心より皆様をおもてなし申し上げます。
ぜひ、一度、越後高田まで、足をお運びください。
株式会社 武蔵野酒造
〒943-0834 新潟県上越市西城町4-7-46
TEL.025-523-2169
FAX.025-524-3041